参謀note
気付きの走り書きメモ
関係が途絶えて久しかった友人の葬儀にて
「終わりで総てが量られる」
関係が途絶えて久しかった友人の葬儀に参列し、感じたことです。
どのような人たちが参列する葬儀を迎えたか。
未解決の問題を含め、何を残したのか。
どのような人だったと憶えられ、語られるのか。
生きてりゃ、そりゃいろんなことがあって当然じゃないですか。歓喜の声をあげる最良のときもあれば、誰かを恨んでしまう最悪のこともあるはずです。
最良のとき、多くの人にとっては憂いは少ないはずです。
しかし、最悪のときには、言いようもないほど重くのしかかる憂鬱を胸の奥底に抱き込んで、誰とも会いたくないときもあるはずです。
ただ、そのときを少し超えた先で、いかにリカバリーを図る具体的な行動が取れるか、取り続けられるか、無理にでも凛と装う姿が「人となり」の裏側に、年輪のような節目を刻むのだと思います。そして、反省を繰り返す中で、ようやく心の隅、それも角のほうから少しずつしなりを帯びはじめるのだと思います。
ゆえに、「リカバリーがすべて」と確信しています。
終わりの瞬間まで、ゲームセットを迎えることはありません。
自分自身、50歳を超えてなお未熟極まりないため、エゴが収まらず、感謝の言葉を素直に述べることも、自らの過ちを認めて謝罪の言葉を述べることもできず、醜態をさらすことがあります。しかし、「ありがとう」と「申し訳なかった」の言葉を、心の底から素直に伝えられるときを迎えることを諦めていません。
いつ終わるかなんて、誰にもわかりません。
その瞬間は、ある日突然かもしれません。
手遅れにならないよう、冒頭でお伝えした「終わりで総てが量られる」の言葉を、今一度自分の中に収め、心からの感謝と和解の瞬間が迎えられるよう、日々を真面目に生きなければと改めて思います。
参謀 青木 永一